イスラム と 奴隷

※ サハラ砂漠横断貿易では、650年から1600年にかけての950年間に4.820.000人。 800年から1600年の紅海沿岸貿易では、1.600.000人。東アフリカの港を通じての貿易では、800.000人。<Ralph Austin: イギリスの学者、イスラム研究者による。>
 異論もあり合計7.220.000というのは少なくて、広大な地域での動きなので、その3倍、35.000.000とも。
 17世紀のみの概算は、一年の平均で、サハラ砂漠経路では、700.000、紅海貿易では100.000、東アフリカから100.000。 18世紀では、一年の平均はもっと増えて、サハラ砂漠では700.000、紅海沿岸200.000、東アフリカからは400.000。
 19世紀の終わりには、結局、9.420.000人の奴隷がブラックアフリカからイスラムのマーケットに送られた。  19世紀は、奴隷貿易の量に関して、それ以前の12の世紀に比べて飛びぬけていて、事実を記録した書類は、広範囲を網羅し正確である。一年の平均が20,000を超し、全体では2,000,000以上で、サハラ砂漠では1,200,000、紅海450,000、東アフリカ沿岸では442,000。
 この数字は以前に概算した12世紀半の数とトータルすると11,512,000となり11,863,000という4つの世紀にわたる大西洋奴隷貿易で船に積み込まれた奴隷の数字とそう大差のないものになる。

610 預言者ムハンマド、マッカでクルアーンの啓示を受け、その2年後から布教を始める。
622 ヒジュラ(聖遍)、マッカからマディーナへ。イスラム暦の始まり。
632-634 初代カリフ、アブー・バクル。反乱を鎮めてアラビア半島の全部族を統一
634-644 第2代カリフ、ウマル・イブン・ハッターブ。ムスリム軍、イラク、シリア、エジプトに進攻する。
638 ムスリム、エルサレムを征服。マッカ、マディーナ、エルサレムが、第3の聖地となる。

※ビラール・ビン=ラバーフ(580--640)ムハンマドの奴隷で側近。エチオピア出身の黒人であった。アラビア語でイスラム教の礼拝を呼びかける最初の役人。ムアッジン、美声の持ち主であった。
※639 エジプト進攻の司令官 アムル・イブン・アル=アースも、エチオピア出身の黒人、 その他の説もある。
641  ペルシャ帝国を破る
644 カリフのウマル、ペルシャ人捕虜に暗殺される。第3代ウスマーン・イブン・アッファーン。書物としてコーランを編集する。首都はマディーナ。
644-650 キプロス島、北アフリカのトリポリ、イラン、アフガニスタン、スィンドでムスリム支配の確立。
656 第4代 アリー・イブン・ターリブ。
656-661 第一次内乱。 アリー、ハワーリジュ派の過激派に殺害される

正統カリフ時代の終わり

 

※イスラム教の伝統に於ける奴隷制度は、預言者による最後のこだわりがあり、奴隷の主人達に彼らを情け深く扱うように命じた。 「主人は奴隷を軽蔑するな。彼らと食べ物を分かち合い、彼らにあなたと同じ着物を与え、節度のある仕事以上をさせず、彼らに落ち度があっても極度に罰せず、一日に70回許し、それでも上手くやっていけなければ、他人に売りなさい。」
※652年に亡くなった、預言者と親密だった10人の仲間の一人、アブド・アル・ラフマン・ビン・アフは、少なくとも3万以上もの奴隷を解放した。  「あなた方の右手が解放を求めるものを所有しているなら、それに応じて接し、彼らの中に何らかの善を認めたなら、神があなた方に与えた富を与え給え。」 ★奴隷は自由になっても、働き口は元の主人だった。
※女性奴隷にも同じように、主人という優越性を通しであるが、情け深い対応を求められた。クワラーン(コーラン)では、彼女たちは、原則的に主人達によって楽しまれると明記している。しかしそのような、原則は、彼女たちが結婚するときは、その夫に譲る等、男女に拘わらず貞淑な奴隷達を結婚させる義務があった。彼らを教育し、養い結婚させれば、それは、天国での二倍の報酬を約束させた。 
     ※アメリカ大陸の奴隷制と対照的に、ムスリムでは、奴隷の母と子供が7歳ぐらいになるまで、母と子供を別々にすること、他の主人の持ち物になることを禁じた。   「誰であろうと母と子を別つ者は、神があなたを愛しい人から引き離すであろう、復活の日に!」
※ムスリムでは、奴隷状態とは、奴隷の母に生まれるか、戦争の捕虜かの二通りしか許されていない。
※イスラム世界においては、シャリーアによって奴隷の法的身分に関する規定が明確化されており、彼らは所有者によって自由に売買、贈与されることができ、結婚の自由、財産を蓄える権利、公職につく資格などを法的に制限されていたが、債務不履行や親による売却によってイスラム社会の自由人をむやみに奴隷とすることは禁じられ、信仰の自由を与えられるなど、人間としての一定の権利を認められる存在であった。特に最後の規定により、生まれながらの奴隷を除いては、奴隷の獲得は異教徒に対する戦争において捕虜としたものを奴隷とすることしか認められなくなった。 また、奴隷を解放することは最後の審判のあと天国に迎えられるために望ましい善行とみなされていたので非常に積極的に行われ、奴隷は解放によって社会身分上は自由人にまったく劣らない資格を獲得することができた。しかし、解放されても奴隷は生まれながらのイスラム社会の成員ではなかったので社会的に力のある者に保護されることが必要であり、必然的に元所有者との間に保護・被保護の関係が結ばれ、一種の主従として関係が存続する社会的な制度が存在した。このような元奴隷の被保護者のことをマワーリーという。 イスラム以前のアラブ社会では、奴隷はもっぱら家内奴隷であったが、マワーリーの制度によって富裕な有力者は盛んに奴隷を購入し、平時には子飼いの商人、戦時には兵士として動員することができる被保護者を増やして力を蓄えた。イスラム化以降も同様であり、奴隷や捕虜が有力者の私的な軍事力に利用される慣行は維持された。 「ウィキペディア(マムルークより)」
※660年に死んだ、アフリカ出身の奴隷Suhaymは、詩を残した。  「もし、私の肌がピンクなら、女性たちは私を愛するだろう。しかし、神は私を黒く染めた。」  「私の肌は黒いが、私の気質は真っ白だ。」
661-680 ウマイヤ朝、首都マディーナからダマスカスへ。ムアーウィヤ一世の治世。    カリフは世襲制となる。
680 第二代カリフ、ヤズィード一世。
680-692 第二次内乱
685-705 第五代カリフ、アヴドゥルマリクの治世。ウマイヤ朝の支配が回復。
※694 黒人奴隷サンジュの反乱
※サンジュ: 黒人奴隷。アフリカ西海岸からの人々で構成されていた。西ペルシャに取り囲まれた地域、主に南イラクで農業労働。彼らは溝を掘り、湿地帯から水を抜き、地表の塩を取り除き、プランテーションとして、砂糖、綿を栽培した。500人から5000人規模で、キャンプで暮らし、生活状態は、彼らに求められた労働と同じように厳しいものだった。反乱は鎮圧され、多くの奴隷を使う状態は変わらなかった。
705-715 第六代カリフ、ワリード一世。ムスリム軍、北アフリカの制服を続け、スペインにまで勢力を伸ばす
717-720 第八代カリフ、ウマル二世。
720-724 第九代カリフ、ヤズィード二世。自堕落な支配者で、シーア派とハワーリジュ派で、ウマイヤ朝に不満が広がる。
724-723 第十代カリフ、ヒシャームの治世。敬虔だが専制的な支配者で、やはり敬虔なムスリムたちの反感を買う。
※726年に死んだ、Nusayb ibn Rahahは、アラブの詩人の彼の肌の色に対する中傷に答えて、  「黒さは、私を消しはしない、この舌(言語)とこの強い心臓がある限り。   ある人達は血統のことをあげつらう、 私の詩の一行一行は、私の血(統)だ。   無言の白人より、鋭い精神を持ち、 はっきり物を言う黒人がどれだけ素晴らしいのか?」
※黒人奴隷は身体的強さを要求される労働の制度に好まれ、それはたいてい社会階級の底辺に属した。イスラムの文化は身体的なことより、知性を重んじた、と言っても女性の美に関しては例外だった。知性の劣っているとされ、特別な身体的強さがますます黒人に対する軽蔑を正当化し助長した
743 アッパース家、イランで反ウマイヤ朝の支持を集め、シーア派を掲げて戦う。
430-744 第十一代カリフ、ワリード二世。
744-749 第十二代カリフ、マルワーン二世、反乱軍に対するウマイヤ朝の優位を回復しようと努めるが。
749 アッパース家、クーファを占領してウマイヤ朝を倒す。
750-754 初代カリフ、アブー・アッパース・サッファーフ。ウマイヤ家の人間を皆殺しにする。専制君主制の始まり。
754-775 第二代カリフ、アブー・アッパース・マンスールの治世。シーア派信徒を殺害。
756 ウマイヤ家の生き残りがスペインで独立王国を築き、スペインがアッパース朝支配からはなれる。(後ウマイヤ朝 1031まで)
762 バクダッド建設開始、アッパース朝の新首都となる。 
786-809 第五代カリフ、ハールーン・アッラシードの治世。アッパース朝の最盛期。バクダッドなど帝国内で、大々的な文芸復興。
※800-909 アグラブ朝、アッパース朝支配下でチュニジア地方の支配を認められた。 アラビア人の軍隊に対する潜在的な対抗力として、黒人奴隷軍を作った。これが記録に残る最初である。
813-833 第七代カリフ、マアムーンの治世。
817 マアムーン、シーア派の第8代イマームであるアリー・リダーを後継者に指名する。
818 アリー・リダー没。殺害されたものと思われる。
833-ヤズィード二世の治世。自堕落な支配者で、シーア派とハワーリジュ派、でウマイヤ朝に対する不満が広がる。
833-842 第8代カリフ、ムウタスィムの治世。トルコ系奴隷軍人からなる私兵部隊を創設し、首都をサーマッラーに移す。
842-847 第9代カリフ、ワースィクの治世。
847-861 第10代カリフ、ムタワッキルの治世。
848 シーア派第10代イマームのアリー・ハーディー、サーマッラーの兵舎に軟禁される。
861-862 第11代カリフ、ムンタスィルの治世。
862-866 第12代カリフ、ムスタイーンの治世。
866-869 第13代カリフ、ムウダッズの治世。
868 シーア派第10代イマーム没。息子のハサン・アスカリー、サーマッラーでの軟禁生活が続く。

※868-869 バスラに、東アラビアの預言者と自称するアリー・イブン・ムハンマド(イドリース朝4代目とは別人)が現れZanj(ザンジュ;黒人奴隷)達に、パワーと土地をあたえると約束し、支持を得た。   彼は、決断力とエネルギーで、能力のある指揮官の下に部隊を編成、5000人の反乱軍を組織した。
※反乱は西ペルシャのザンジュの間にもすぐ広まった。反乱軍は2つの重要な街を奪った。そこでは、都会の貧しい人々、不満を抱いた農民たちのサポートによって、地域の中心であるアフヴァーズ、(現イラン)を征服した。
※868―905 トゥールーン朝アフマド・ブン・トゥールーンによる独立政権をエジプトに設立。彼は870年に黒人奴隷軍を導入した。彼自身もかつて中央アジア出身の白人奴隷であり、2400人の白人奴隷軍と4500人の黒人奴隷軍を彼の死後も残した。
869-870 第14代カリフ、ムフダディーの治世。
870頃、最初のファイラスーフ(哲学者)であるヤアクーブ・イブン・イスハーク・キンディー没。
870-892 第15代カリフ、ムウダミドの治世。
※870 カリフによって送られた大軍が負け、バスラの金持ち達は慌てて逃げ出した。サンジュ反乱軍は勝ち続け、カリフの軍隊から逃げ出した黒人奴隷の兵士たちに、武器を与え訓練し、反乱軍を補強した。
※871 ザンジュの軍隊はバスラに進攻、略奪した。都会での火事で大部分はなくなり、300.000の人々の命を奪った。
※反乱軍は勝利に酔うことはなく、基地を放棄し戦略を変えた。シャットゥルアラブ(ティグリス川とユーフラテス川の合流地点)の湿地帯の中州、葦の生えた水路に沿って土塀を作り拠点を確保した。そのような拠点の一つに、アル・イブン・ムハンマドの司令部がありムフターラが要塞化された町となり、ザンジュ国の首都となった。ここから、反乱軍は敵軍のキャンプ、町、貿易キャラバン、商業船を襲った。
874 シーア派第11代イマームのハサン・アスカリー、サーマッラーで軟禁状態のまま没す。息子のムハンマド・ムンダザルは、命を守るため隠れたとされ、隠れイマームと呼ばれている。
※878-79 ザンジュ軍は、バクダッド進攻に向かい、近郊のワーシトを攻略し、イスラム帝国のほとんどの大きな町を陥落した。それは彼らの最盛期であった。
※しかし、イスラム帝国の新しい才能のある司令官ムワッファク は、湿地帯の水路、運河を航行できる大船団を獲得した。そこに、戦いに疲れ脱走する兵士や、長引く反乱への支持が減ってきた。司令官は支持者や脱走した兵士たちを殺すこと、拷問にかけることを辞めた。
※反乱が進み、多くの地域を制圧し略奪したが、ザンジュに約束された地位と財産は、そのリーダーたちに集中されるようになった。イスラム帝国の課税で苦しみ反乱に加わった小作人たちは、反乱グループが支配者になったと気づいた。かつて共感し中立であった商人、職人たちは、占領された領域内で経済活動を見過ごされていたが、アル・イブン・ムハンマドがカリフを名乗り、モスクで彼のために祈りを求め、コインに自分の名前を刻んだ時、反乱政権が転覆させようとした政権と同じものになったと気づいた。
※883 ムワッファクの軍隊は領土をだんだん取り戻したが、それでも3年かかった。
※イスラム帝国の勝利の結果、多くザンジュが殺され、奴隷制は元に戻った。制圧されたといえ、反乱はその後に影響を与えた。多くの黒人奴隷をプランテーション、灌漑工事等で使う黒人奴隷の数が急激に減った。 危険だと思われたのだ。
892-902 第16代カリフ、ムウタディドの治世。
902-908 第17代カリフ、ムクタフィーの治世。

※905-968 Abu al –Misk kafur は、イフシード朝(935-969: エジプトを支配したイスラム王朝。) で、才能を発揮した黒人奴隷宦官で、軍人でもあり政治家でもあった。出身はヌビアだと言われている。
908-932 第18代カリフ、ムクダディルの治世。
909 シーア派のファティーマ朝 (-1171)、(シーア・イスマーイール派)現チュイニジアのイフリーキで権力を握る(アグラブ朝を倒す。)
アッパース朝に対抗、エジプト、シリアをも支配。
910 初期の「醒めたスーフィー」であるバクダッドのジュナイド没。
※女性奴隷は色んな目的から、無視できない数を求められた。ミュージシャン、シンガー、ダンサーなどで、地位のある大きな家や今勢いのある家にかかわらず、室内オーケストラ、詩作、朗読等は、彼女ら無しには成り立たなかった。バグダッド、コルドバ、メェジナには授業を払い、音楽的文学的技術を教える有名な学校があった。そんな奴隷は貴重で高価であったが、ほとんどは掃除、料理、洗濯、子守、そして需要の多くは妾であった。
※後ウマイヤ朝コルドバ、アブド・アッラフマーン3世(912-51)は、6000人の後宮を囲っていた。シーア派のファティーマ朝 (969-1171)では、その2倍だった。高級官吏、名高い商人は彼らの身分と資産に応じて多くの女を囲っていた。金持ちだけでなく、社会的の底辺の方でも、小売り商人や職人も、おそらく家事だけでなくセックスサービスをも要求される1人か2人の妾を持っていると自慢していたようだ。
※妾、内妻であることで、社会的地位が落ちることはなかった。主人が妾(奴隷)と結婚することは、みっともないことでもなく、珍しいことでもなかった。いやそれどころか、妾は将来の妻として試しに買われることもたびたびであった。さらに、主人の子供を孕んだ妾(奴隷)は、売られることもなく譲られることもなく、ひょっとしたら離婚されるかもしれない正妻よりも間違いなく安全で重んじられた。
※男性奴隷もまた、家事を要求された。色々な社会階層の中で必要な空間を確保できる人達は、家を女性用の場所、男性用の場所と機能上に分けた。後者、男性奴隷は主人やゲストのニーズに応じた。彼らは、家内では、馬丁であり、護衛であり、主人や女主人が混雑した危険な都会の路上に出かけるとき、メッセンジャーやポーターとしても雇われた。金持ちの商人の家では、ミュージシャンや学者から秘書、代理人、書記をも、奴隷から雇った。そして、彼らはまだ、他の使われ方があった。  誤り(不貞)を逃れないと思われた女性たちを守り、夫や主人の名誉を維持するため、イスラムでは、女性にヴェール、特別な宿所に隔離する以上の広く行われていた習慣があった。そして、財源があるならば、ハーレムは単に鍵や奴隷のガード、それ以上に、いつも宦官がいた。
※10世紀初期のバッグダッドのカリフは7000人の黒人宦官と4000人の白人宦官を抱えていた。
※黒人少女 Ishraq as-Suwaidaは、10世紀のイスラム・スペインで語りと詠いで名声を得る、特別な才能を持っていた。
 ※ザンジュの反乱の結果、奴隷の数が減ったということは、放棄したということではなかった。北東アラビアのナツメヤシのプランテーションで多くの奴隷が使われ。同じようにサハラのオアシスで穀物、野菜、ナツメヤシの栽培にも多くの黒人奴隷がいた。。
922 「陶酔スーフィー」のフサイン・イブン・マンスール、通称ハッラージュ(「綿すき人」)、神を冒涜する発言をしたとして処刑される。
923 歴史家アブー・ジャアファル・ダバリー、バグダードで没。
932-934 第19代カリフ、カーヒルの治世。
932 ブワイフ朝 (-1062) 12イマーム・シーア派、首都バグダッドに入城、政治の実権はアミール(軍人指導者)の手に。カリフの存在は有目無実に。
934-940 第20代カリフ、ラーディーの治世。
934 隠れイマームが超越的世界に「幽隠」したと宣言される。
935 哲学者ハサン・アシュアリー没。

☞ムハンマド時代→正統カリフ時代→ウマイヤ朝時代→アッパース朝時代。
※「アラブ帝国」から「イスラム帝国」

 

※これ以降、カリフは俗界の権力を持たず、象徴的な権威を保持するのみとなる。実権は地方の支配者に移り、それぞれが帝国の各地で独自の王朝を建てた。そのほとんどは、アッパース朝カリフの権威を認めていた。10世紀に登場するこうした地方支配者には、シーア派を支持する者が多かった。
※969-1171 ファーティマ朝 アグラブ王国の黒人奴隷軍を信用に足らないと全滅させ、自らの黒人奴隷軍を創設。1046-49年に、カイロを訪れたペルシャ人は、10万の軍隊の中に約3万の黒人奴隷軍がいたと推定している。
※972 ファーティマ朝 カイロに首都を移す。ベルベル人の軍人 ブルッギーン・イブン・ズィーリーはマグリブの統治を任される。後にズィール朝(973-1148)。3000人もの黒人奴隷軍を保持、その後増え続け、王位継承での忠誠心で問題を起こし、11世紀半ばに廃止。 
977  ガズナ朝(-1186) スンナ派トルコ系。
1038  大セルジューク朝 (-1194)  1055年にバグダッドに入城してブワイフ朝からカリフを救出。
※1040-1147 ムラービト朝 (Al-moravid dynasty) 北アフリカのサハラ砂漠西部に興ったベルベル系の砂漠遊牧民サンハージャ族を母胎とするモロッコ、アルジェリア北西部、イベリア半島南部のアンダルシアを支配した。第5代カリフ ユースフ・イブン・ターシュフィーンが、2000人のスペシャルボディーガードとして黒人奴隷を使った。
※1077 ファーティマ朝。ベルベル人に属していた何千人もの女性が抵抗した結果、カイロで売られた。
※1036-1094 ファーティマ朝第8代カリフ、アル=ムスタンスィル・ビッラーの母はスーダン黒人奴隷で妾であった。彼女はハーレムの運営に責任のあるユダヤ商人の協力を得て、彼の治世の最初の15年間を統治した。
※1169 カイロの黒人奴隷軍、ベルベル人軍、トルコ軍と主権を争い敗北する。バイナルカスラインの戦い。ファーティマ朝はサラーフッディーン(サラディン)の支配下に入った。
※ サラディンは、十字軍の時代にヨーロッパではだれでも知る名前となった。彼はキリスト教軍を破ったが、敗軍の将兵に思いやりと騎士道をもって接した。サラディンの優れた人柄に比べて、中東の一般市民に野蛮な行為に及んだキリスト教軍の指導者がいかに粗野であったかを指摘する歴史家、歴史家が少なくない。
※ 12世紀の史上初めて正確な世界地図を作成した、地図学者、地理学者である、イドリースィー(1110-1165)は、ヌビアからの奴隷女性について、  「彼女たちは、まさしく美だ。割礼され、匂いがいい。唇は薄く、唇は小さく、髪は豊かであった。すべての黒人女性は、ベッドでの快楽ではベストだ。彼女たちのそのような特質のために、エジプトの支配者たちは、彼女たちを望み、高値で、競売で手に入れた後、彼らからの子供を育てた。」
※Nubbian→Nubia(ヌビア):エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方の名称。
※1169-1250 アイユーブ朝 シリアのザンギ―朝に仕えたクルド系軍人サラーフッディーン(サラディン)が創始者。黒人奴隷軍を全く使わなかった。
※ たとえ、奴隷解放を奨励されているといえ、異教徒を征服するのにも限度があり、法律を無視しない限り需要を満たすことが出来なかった。ムスリムの国境地方では、イスラム教も含め色んな信仰の人たちが戦争、襲撃の対象となり奴隷とされた。一方、国内でも自由人も誘拐され奴隷として売られた。
1258 アッパース朝カリフ体制、モンゴル軍の侵攻で滅亡。イスラム教古典時代が終わり、スーフィズム(神秘主義)に染まった中世イスラム時代が始まる。
1250 マムルーク朝(-1517) エジプトで、イスラム文化を維持。
※Mamluk→マムルーク朝(1250-1517)エジプトを中心に、シリア、ヒジャースまでを支配したスンナ派のイスラム王朝。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出た。
※イスラム世界に於いて「白人」とは「黒人」の純粋な対義語であり、サハラ以南のアフリカのネグロイドを除くユーラシア•アフリカ大陸に住んでいた人種おおむね白人と考えられていた。軍人として活躍したマムルークの出自はおよそがキプチャクなどのテュルク系民族あるいはチェルケスなどのカフカス系民族であったが、モンゴル人、クルド人、アルメニア人、ギリシャ人、スラブ人等の民族も含まれた。(ウキペディア「マムルーク」より)
※ 1391-1392 ボヌル帝国 (アフリカはチャッド湖近く。)の王 uthman ibn Idrisはエジプトのマムルーク朝に、このような手紙を送った。 「Jodham(場所不特定)また、その近郊のアラブ人は、我々の家族である、自由人、女性、子供、老人また、ムスリムをも捉えている。これらのアラブ人は、我々の土地を略奪し続けている。彼らは自由人、わが父なるムスリムを捕え奴隷として、エジプト、シリヤ、その他の奴隷商人に売ったり、彼ら自身の奴隷として確保している。」
※カネム・ボヌル帝国 (700--1380): 現在のチャッド、ナイジェリア、リビアあたりに存在したカネム帝国として始まり、ボヌル国としての名前は1900年まで続いた。
※1353年ムスリムの西アフリカを旅行したモロッコの学者Ibu Battútáhaはムスリム王国ボヌル帝国について、「この国からは、素晴らし奴隷の少女や、宦官、サフランで染色された織物が輸出される。」と記した。
※ 古代のアラビアでは、去勢はどこでもされてはいなったが、どんな時でも宦官を手に入れることができた、初期のムスリムでは、去勢は広く非難されていた。切断することはムスリム法で禁じられていた、ハディースにおいて預言者の威信で去勢を禁止する特別の法律が発効された。  「誰であろうと奴隷の鼻を切り落とすものは、その者の鼻も切り落とられるであろう。そして、誰であろうと奴隷に去勢を施す者は、その者も去勢されるであろう。」 しかし、征服によって手に入れた富とイスラム教の広がりに取り囲まれた文化の影響で、宦官はペルシャやビザンティン帝国で色々な目的で使用されていたので、訓戒より結果を求めた。
※15世紀、南部モッロッコで発展するプランテーションで多くの奴隷労働力を必要とした。
1453 オスマン朝(1299-1922) スルターン、小アジアから、コンスタンティノープルを落とし、ビザンツ帝国滅亡。
1492 イベリア半島からムスリム追放される。西欧諸国のイスラム世界を、植民地、半植民地としての支配が始まる。
1526-1858 ムガール朝 
1501-1736 サファヴィー朝 イラン

※1570年、カイロを訪れたフランス人は、市場で売られる何千人もの黒人を見つけた。
※1665~66年には、スペイン・ベルギー旅行家、 Father Antonius Gonzalesはカイロの市場で、たった一日に、800から1000人の奴隷を見た。
※1796年、イギリスの旅行家が、5000人もの奴隷のキャラバンがDar Furを出かけるのを見た。
※1849年、イギリスの副領事がFezzanの Murzuqに2,384人の奴隷が到着と報告。
※17世紀から、チャド湖の南東の州バグイヒリミで宦官が生産された。一人の19世紀の旅行者はモロッコでは、奴隷の主人が自分の奴隷を去勢して、妾として利用していたと報告している。それ以上に、この世紀では、ムスリムの奴隷商人みずからが奴隷の売買の現場、また市場への道柄、去勢をした。19世紀では去勢されていない奴隷の7倍という、奴隷宦官の値段が高さは、手術の依る死亡率の高さで人数が少なかった事と、彼らに対する飽くことのない需要を反映していた。彼らを雇う理由はハーレムの守りで在るのは明らかであるのと同時に、行政官、家庭教師、秘書、というのもあり、商業上の使用人というのは少なかったようだ。たぶんに宦官はふつうの注意散漫な男より、主人への奉仕は、より熱心で信頼できると考えられたであろう。現実に支配者たちの要求は巨大だった。10世紀初期のバッグダッドのカリフは7000人の黒人宦官と4000人の白人宦官を抱えていた。
※ 家事以外では、男性奴隷は、港での労役、建築、運搬、工作所、工場と多くの仕事があったに違いない。多くは黒人であろうが、主な都会の経済活動以上の非常な過酷の労働に従事していた、たとえば、14世紀に地下資源が枯渇するまで、南エジプトのWadi Allaqiの金鉱であるとか、西サハラの塩田。  しかしながら確かなことは、アメリカ大陸での何百万人もの黒人奴隷を巻き込んだ、商業的プランテーション農業の規模に匹敵するほどの、あちらこちらで継続した奴隷制はなかった。 これは求めていたものではなかったにしろ、この結果、この犯罪は広大な広がりと継続的な影響で荒廃していた。
※19世紀  綿の需要が増えた。スーダンからの奴隷の供給は豊富で、エジプトでの穀物の生産に使役された。内陸で拉致された奴隷の多くは東アフリカの沿岸、ザンジバル諸島,ペンバ島のプランテーションで働かされた。
※ ヨハン・ブルクハルト(1784-1817) スイス出身の地理学者、東洋学者は、手紙に書いた。  「メッカで普通の環境では、奴隷を持たない家族はほとんどなかった、そして妾はほとんどエチオピア人だった。メッカの男たちは自分の情欲を満足させるために、家庭に平和をもたらすことはなかった。彼らはみんな法的な妻と共に情婦を囲っていた。しかし、もし奴隷に子供ができたら、一般的に主人は彼女と結婚し、そうしない場合、社会に非難された。多くのメッカの男たちはエチオピア人以外の妻を持たなかった、というのも、アラビア女性は高価な上に、夫の意思に委ねるということが、あまりなかった。同じようなことが、ヒジャース(西部サウジアラビア)に滞在する外国人にも言えた。町に着くと、彼らは女性の同伴者を、どこか移動する時には転売するつもりで買うが、滞在が長引き、女性が子供を産んだりすると、結婚し、その街に定住した。未婚者、または奴隷を持っていない人はほとんどなかった。これは東の国々で普通で当たり前だった。 が、メッカはそれ以上だった。疑いもなくエチオピア人との混血は、メッカの人たちの肌に黄色味をおびさした。それは、砂漠の土着の人たちと区別されることになった。」
※「エジプト、またアラビアでは、ヌビアの男たちは、他のアフリカの男たちより、労働に適していると思われ、性格もよく、シェンディ(現スーダン) やエジプトで、他の黒人たちより20%も高く売れた。それに反して、エチオピア人の男たちは肉体労働にはあまり適さないと思われたが、正直であると考えられ、優秀な家内召使や、書記になり、彼らの知性は他の黒人たちよりも優れていると思われる。ヌビア人は健康な体質であり、エチオピア人よりも病気にかかることが少ないと言われている。彼らの多くはエジプトに輸出されたが、その他にも、アラビアのジッダに運ばれるために紅海のSousakinに送られた。」 ★Noubus; 中央から南部スーダンあたり。 ★Nubia: :エジプト南部アスワンあたりからスーダンにかけての地方の名称。 ★Shendy;Shendi;シェンディ: 北部スーダンの町でナイル河の東岸にあり、交易が盛んであった。 ★ジッダ:サウジアラビア西部マッカ州(メッカ州)にある紅海に臨む都市。 ★Sousakin: Jeddaの対岸にある、スーダンの港。(Sawakin)
※ 「メッカでは、ほとんどの宦官が<銅色のインド人もいたが>、黒人であり、彼らはみんな黒人奴隷と結婚し、彼らの家庭で男と女の奴隷を召使いとして使い、モスクからの収入、巡礼の寄付、コンスタンティノープルからの給付金、そして、交易からの利益など莫大な収入があった。彼らの上役は彼らの間から選ばれ、名士とされ将軍 や統治者と同席した。そういった尊敬され尊厳ある宦官が、メディナでは40人から50人ぐらいいた。」
※「彼らは同じ服装だといえ、高価な衣装で、いつも上等のカシミヤのショール、最高のインデアンシルクをまとい、非常に重要な人物であるとの空気を漂わせていた。彼らがバザールを通ると、みんなが急いで彼らの手に接吻し、町の内政に大きな影響を与えた。彼らはメディナのモスクの東側の一等地に住み、彼らの家は町内の誰よりもお金をかけて装飾されていた、成人たちはほとんど黒人かエチオピアの奴隷と結婚していた。  宦官の長は、モスクの長でもあり、町の長でもあり、メッカでは長官という宦官の長以上の高い位に結果的になった。モスクでの宦官は、もし誰かに宦官と呼ばれると、相当侮辱されたことになる。彼らの通常のタイトルは、長官で、彼らの長は将軍,やメッカの統治者と同じように、殿下のタイトルを持った。」
※、1838年に、概算で10,000から12,000の奴隷が、たった一年にエジプトに到着した、彼らの多くは疑いもなく家内労働、または、その種のも向けであったが、其の他として、内妻、建築、工場作業員、赤帽、ボーイ、運搬人、担ぐ人、門衛、etc…, 港湾労働者、事務員、兵隊、開拓者 であった。
※9世紀のザンジュの反抗が、農業部門において多くの黒人奴隷を使うのを控えさせたのに拘わらず、雇用というのは、時と場所に依存した。19世紀でのもっとも注目に値する例は、東アフリカ沖の島ザンジバルやペンバ島のクローブ―プランテーション、同じく東アフリカ沿岸のモンバサ(ケニヤ)やマリンディ(ケニヤ)周辺の主に穀物栽培向けのプランテーションで、その数字は、769,000人だった。
※ 1869~1874年の間に、ブラックアフリカ内陸のあらゆる所を旅したドイツ人医師で探検家のグスタフ・ナハティガル は、1879~1889年に3巻にも及ぶ、奴隷貿易における保管、輸送の生々しい内容のリポートを出版した。̛̕中央アフリカのチャド湖の南東にあった王国バーガァメの練兵場では、捕獲された奴隷は鎖に繋がれているか、鎖のなければ, ほとんど動けないほど弱っていても生皮で縛られていた。チャド湖の湖岸にあるKukaのマーケッティングセンターへの旅で、ナハティガルは100人ぐらいの奴隷のキャラバンに随行し、それぞれの奴隷の苦難を目撃した、そして、3人か4人が、死んだか、必死で逃げたか、姿を消した推定している。
※サハラ砂漠を超えること自体が危険な行為であり、衰弱している奴隷にとっては致命的であった。ティベスティ地域(サハラ砂漠内の山地)を行ったり来たりしたナハティガルは、白骨化した骨や、ラクダの骸骨、やっとたどり着いた水源で息絶えた奴隷のキャラバンと出くわした。
※サハラ砂漠を超えること自体が危険な行為であり、衰弱している奴隷にとっては致命的であった。ティベスティ地域(チャド、リビアのサハラ砂漠)を行ったり来たりしたナハティガルは、白骨化した骨や、ラクダの骸骨、やっとたどり着いた水源で息絶えた奴隷のキャラバンと出くわした。
※寒さは暑さと同じように致命的だった。ドイツ人探検家ハインリヒ・バルト は、彼の友人でボルヌ王国の役人Bashirが巡礼の間、売ろうとして連れていたおびただしい数の奴隷を、フェザン(チャド)とベンガジの間の山で寒さのために、一晩で40人を亡くしたと記録している。
※時には、キャラバンも、その旅が予想以上に長くなったか、旅費を切り詰めるために、初めからケチったかで、食料不足になった。そんな時、商人たちは奴隷に食べ物を与えるより、自分たちが生き延びるために、どんな食べ物でも可能なら、自分のものにした。イギリス人の探検家は、食料不足のままボルヌを出発した奴隷キャラバンが残した100もの骸骨に出くわしたが、その生き残りが フェザンに着いたとき、トリポリの市場に行くまでに太るように食事を与えられたのを記録した
※カイロ・ゲニザ(ヘブライ語の不要文書保管庫)で発見された資料により、10世紀から13世紀にかけて地中海沿岸のユダヤ社会の歴史、イスラムの文明に関する著作のある、エス・ディ・ゴイティン は、カイロのファティーマ朝時代の一人の奴隷の平均な値段は、20 gold dinarsとしている。(1dinars = 4.25pure gold?)
※アンダルシアの歴史家,が1067年に現在モーリタニアのサハラ砂漠貿オアシスAwdaghostでの黒人女性料理人の優秀さについて書いたように、彼らの値段は100dinars以上。それに、イスラムのスペインでは1065-67年には、黒人奴隷の値段は160dinarsと記録にある, ところでコルドバ市内の家屋はそれと同じような値段で売られていたし、280dinars,という家もあるが、馬は 24、ラバは、60だった。
※この費用にかんしては、何を求められているかを知る必要があると思われる。ゴイティン曰く、「 家事に関して、イスラム社会の自由女性たちに嫌われた仕事をする、大きな部門を黒人女性奴隷が占めていたと」。現在私たちは、メイドの助けがなくても、電気やガス、色んな使い捨ての小物でやっていけるが、この時代、大邸宅では家内に助けがなくてはやっていけなかった。これが、カイロ・ゲニザの書類に女性奴隷についての項目が多いのが理解できる。
※これは預言者に伝えられた神の計画に含まれる、哀れみ、正義、忍耐、人間の尊厳に対する尊敬という天命に程遠いものだった。結果的に西洋のように組織化されることはなかったが、黒人奴隷貿易の正当化とその結果で、イスラム社会での人種差別が出現した。

 

参考:
☆ Islam's Black slaves/Ronald Segal /Author of " The black diaspora"
☆ イスラム教入門/中村廣治郎著/岩波新書。
☆ イスラ―ムの歴史/カレン・アームストロング/中公新書。
☆ イスラム教:シリーズ世界の宗教/M・S・ゴードン/青土社。
☆ ウィキペディア
☆ 世界史の窓

 

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